今回のコラムは、カウンセリングの内外で行われる非言語的な表現について述べていきます。
カウンセリングを受けたことがない人は、もしかしたらカウンセリングではたくさん話さなければならないと思っているかもしれません。
実際、「たくさん色々なことを聞かれるのではないか?」と思って緊張して来られるクライアントは少なくありません。
初めてカウンセリングに来られた方には毎回感想をお尋ねするのですが、
「思っていたよりも楽しいものだった」
「思っていたよりもたくさん話さなくて良いんだと思った」
と感想を述べてくれる人は多いです。
カウンセリングでは単に話をするだけではなく、非言語的なアプローチも行われています。
それはもちろん、話をするのが苦手な人のためでもありますし、
言葉以上に雄弁に自分の思っていることを語る手段にもなり得るからなのです。
言葉はどのような時に必要か?
心理カウンセリングでは「きく」ことを中心にクライアントへの支援を行いますが、
時には、クライアントの「言葉にならない声」をきく必要も出てきます。
なにも、言葉にすることだけがコミュニケーションの全てではないのです。
言葉は便利です。しかし、言葉というのは危険な道具にもなり得ます。
言葉は、言葉であらわされるものと同一ではないからです。
カウンセリングをしていると、時に具体的な質問をされることがあります
○「私はうつ病ですか?」
○「どうすればいいのでしょうか?」
こういった質問に対して答えることは大きなエネルギーが必要です。
言葉にしてしまうと、それはある種の形をとってしまいます。
そして当然、言葉にすると
言葉にした者にはそれ相応の責任がつきまとうことになります。
しかも、発した言葉は戻ってきません。自分が発した言葉に責任を持つことができないのであれば、できるだけ言葉にすることは控えたほうが良さそうです。
質問した側はカウンセラーの答えを聞いて安心するかもしれませんが、
言葉は言葉であらわされるものと同一ではありません。
カウンセラーが<~すればいい>と言葉で表現したことが100%そのままの意味で伝わることはありません。言葉で表現されることには限界があり、多くの誤解とすれ違いの危険性を常に内包しています。
言葉とは仮説です。
言葉は、何か分からないことをとりあえず分かるようにするために、便宜的に用いるものだと思います。
言葉にすることによってなんとなく分かったような気になることがありますが、言葉で表現されることがすべてではないと知っていることも大事です。
言葉に頼らない支援
そういったわけで、カウンセリングでは非言語的な表現を時に非常に重要視します。
具体的には、
- 描画
- 作業
- プレイ(遊び)
- 芸術的表現
- 夢
といったものです。
心理カウンセリングの中では、時にこういったノンバーバルな側面に着目することがあります。
一本の木の絵を描く心理検査を受けたことがあるでしょうか?
一本の木の絵の描写は、その描かれる過程も含めて、単に言葉で表現される以上に多くのことを語ります。そこには人の過去から現在、場合によっては未来までもが内包されています。
そこでは、「私は今とても辛いです」と言葉で表現する以上の何かが確かに含まれているように見えることがあります。
そしてまた、言葉で表現する必要がないからこそ、様々なメッセージをそこに込めることが出来るのだとも言えます。
絵を芸術としてとらえるのではなく、このカウンセラーとクライアントという一対一の関係性の中における自己表現としてとらえます。
ひょっとしたら、目の前のカウンセラーがまた別の人物であったら、そこに描かれる絵は全く異なるものになるかもしれません。
信頼のできない相手に対しては何も話したくなくなるのと同じことです。
このように、一本の木を絵を描くという非言語的な行為一つとっても、
○その人の心理状態を知るための検査としての側面
○言葉にできない自分の状態を相手に伝えるコミュニケーションとしての側面
○言葉以外の何かとして表現することによってカタルシスを得る側面
など様々な側面があることが分かります。
ノンバーバルなコミュニケーションの一例
作業療法を実際の心理カウンセリングの中で行うことは私は少ないのですが、
クライアントと一緒にたまたま一緒に色鉛筆の整理をしたことがありました。
普段自分の気持ちを出すことが苦手なクライアントでしたが、
その時は「ああー楽しかった」と心からの気持ちが表現されました。
ぐちゃぐちゃになった色鉛筆の整理をするという作業を一緒に行う。
そこにはいつものような意味のある会話はなく、ただ淡々と目の前の作業に一緒に集中するだけでした。ただそれだけのことが、私も不思議と楽しく居心地良く感じられたことを覚えています。
描画、作業、プレイ・・・それらに共通するのは単に非言語的ということではなく、
私とあなたとの間に何かを媒介していることであります。
媒介物は何でも良いです。作業でも、遊びでも・・・
たとえば将棋も、盤面でしばしば対話が行われます。
相手の指した一手に対してどのように応えるのか?
自分の指した一手に対して相手がどのように応えるのか?
実際に会話する以上に多くの情報が伝わることがあります。そして相手の意図が分かると嬉しくなります。同じ水準で相手との気持ちのやり取りができることは、それこそ言葉にできない嬉しさが伴うのです。
将棋だけでなく、テニスでも、卓球でも、、、あらゆる非言語的行為には、実際の対話以上の深いコミュニケーションが行われています。互いのレベルが近ければ近いほど、濃密なコミュニケーションになると思われます。
我々カウンセラーは、言葉を用いたコミュニケーションが苦手な人と対話をするためにこれらの非言語的なアプローチを採用することがあります。
特に子どもとのコミュニケーションは主に遊びを通して行われます。子どもは遊びを通して多くのことを語ります。子どもは言葉が十分に発達していない分、非言語的な表現の名手です。
子どもが遊びを通して自分の気持ちを表現したり、独自の遊びを考え付いて気持ちを発散するときにはその子どもに対して尊敬の念を覚えることさえあります。
表現をすることによるカタルシスの一例
人は表現をする生き物です。強いられなくとも、置かれた環境の中で自分を表現していきます。
その自己表現が何らかの理由で妨げられると、目に見えない心は衰弱していきます。
流れを止めた水が濁って腐っていくように。
絵を描くこと、
文章を書くこと、
何かを作ること、
組み立てること、
粘土をこねること、
等々…

強制されることなく自由に人が表現をする時、
自分の中のイメージを形にすることができたという達成感と、
何かを生み出した喜びが得られます。
繰り返しますが、人は表現せずにはいられない生き物です。
昨今では、インターネットやSNSなどの普及、流行によって自分の表現を簡単に世間に発信できるようになりました。
しかし、本来表現とは人に評価されるためだけに行うものではないと思っています。
それは自分の内側から湧いてくる「自ずからなるもの」であって、人は自分の表現に対して驚くことだってあるのです。自分の内から湧いてきたものなのに驚くことができる。そこに発見と喜び、癒しのきっかけみたいなものがあるのではないでしょうか。
人の評価を気にして行う表現は、コミュニケーションとしての意味合いが大きいでしょう。
一方で、人の評価など関係ない自ずからなる表現は芸術としての意味合いが強く、よってそこには掛け値なしの熱情、自分の魂の表現というべきものが宿ります。
それが、私が定義する本当のカタルシスです。
カウンセリングの中で行われる非言語的なアプローチ
以上述べてきたようにカウンセリングでは、自分の気持ちを表現する際に言葉だけに頼らず、言葉以外のノンバーバルな表現にも重きを置いてクライアントとの関係性を考えていきます。
非言語的なアプローチは言葉によるコミュニケーションが苦手な人のためだけに行われるものではありません。
非言語的なアプローチは、言葉で表すことができない気持ちを聞き取るためにどうしても必要になってくることがあります。
言葉はいつだって「後からついてくるもの」です。
言葉の前には、言葉にされる前の「何かそのもの」があります。
「何かそのもの」は、言葉にされることによって存在感を失うことがあります。
普段のコミュニケーションではそれでもいいのですが、どうしても言葉になる前の「そのもの」を聞き、触れる必要があるときに、ノンバーバルな表現が自ずから生じることがあるのです。
以上、小難しい話をしてしまった気がしてなりませんが、カウンセリングを受けるためのハードル(心理的抵抗)を少しでも下げるために本コラムも書きました。
一人でも多くの人が、自分一人では解決できない困りごとを抱えたときに、カウンセリングという選択肢が頭に浮かぶように、今後もカウンセリングや心理学に関する情報を発信していきたいと思います。
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