心の二元性
心とは何でしょうか?
解剖学者の養老孟司先生は「心はマップの上の矢印マークのようなもの」と述べており、それが非常に印象深かった覚えがあります。
どこかに向かう時、マップを開いて自分の位置を示す矢印がなければ、なるほど、向かいたい場所にはたどり着かないでしょう。それどころか、誰がそこに向かうというのでしょうか?
この「誰が」の部分を説明するのが一応我々が便宜的に読んでいる心という現象であり、すなわち「私」という主語のことであります。
そしてこの「私」がある限り、私たち人間は悩みます。「私」という存在はそのまま「私以外」という対象を作り出します。私が在るのでなければ、そこにはただ一つの世界が存在するだけであり、比較はありません。そして、比較のないところには、悩みは存在しません。
比較のある所に悩みが存在するのではないでしょうか?当然、比較をするのもこの「私」なので、「私」が悩みの根本です。
比較することが出来る時、比較している当の「私」と比較対象になっている「私以外」の間には距離がなければ(比較は)成立しません。
「私」はこのように対象との距離を作り出し、悩みを作り出し、それを克服するための努力を繰り返してきています。それが良いことか悪いことかは置いておくとして…。
私VS私以外、これをここでは心の二元性として定義します。

あるクライアントさんが次のように私に言ったことがありました。

何でこんなに悩まなければいけないのかが分からない。こんなに苦しいことがたくさんあるのに、働いてお金を稼いだり、学校に行ったりすることの全てに意味が感じられないです
それに対して私はその時思いついたことを言いました。

人間というのは、自ら悩みや問題を作り出しておいて、後からそれを解決する。基本的にはその繰り返しなんです。生きる意味については私も簡単には言うことが出来ませんが、悩みのない状態に人間はどうやら耐えることが出来ない、不思議な生き物のようです。
なんとなく、答えになっているようななっていないような、変な答え方をしてしまいましたが、その時そう言うべきだと思いました。
実際、悩みに果てはないように思えます。小さいことから大きいことまで含めれば、悩みのない時など誰しもないのではないでしょうか?
そして、その悩みに対して多くの場合、色々な方向性からアプローチをします。ある人は考え方そのものを変えようと奮闘するかもしれませんし、ある人は具体的な解決のために努力をするかもしれません、またある人は誰かに相談して留飲を下げるかもしれません。。。

二元性の世界にとって、①の平和、平穏、安心、無事、退屈の意味するところは、単に何もないことではありません。
一言で言えば、ネガティブな状態がニュートラルな状態やポジティブな状態に移り変わるだけです。
さらに逆に言えば、ポジティブな状態があれば再びネガティブな状態がやってきます。
そしてその繰り返しが人生であり、心の働きがある限りはこの繰り返しから離れることはないでしょう。
カウンセリングは何のためにあるのか?
心理カウンセラーは当然人の心を扱う専門家ですが、
心が上述したような二元性を持つとして、
心理カウンセラーは一体どのような立場で心と向き合っていくのでしょうか?
ほとんどのカウンセラーは、多かれ少なかれ、意識しているかしていないかを問わず、やはり心の二元性の前提に基づいてカウンセリングをしていると思われます。
カウンセラーも心を持っている一人の人間として、それは当然のことですし、実際私もそうです。
しかし、この二元性の考え方、心の二元的な世界にとらわれてしまうと、クライアントの悩みの世界に一緒に巻き込まれて途方に暮れること必至でしょう。
上述の図に③「努力奮闘」「問題解決に向けたあらゆる動き」としました。二元性の世界においては、ネガティブな状態をポジティブな状態にするための動きやエネルギーが必要です。
「ああすればこうなる」「こうすればああなる」…誰しもがやっている努力とはすなわちこういうものです。ある目標、未来に向かって働きかけること、現在の自分から未来の自分に向かうための動きが努力です。
端的に言って、(二元性の世界では)努力奮闘すれば物事は解決すると思われています。
しかし、実際にはどうでしょうか?本当にそうでしょうか?
努力奮闘して問題解決することももちろんありますが、そううまく解決しないこともたくさんあります。
心理カウンセラーは(少なくとも私の思う心理カウンセラー)は、努力奮闘と問題解決を目指すクライアントの要望に向き合いながらも、努力ではどうにもならないであろうことに関してどのように付き合っていくのかを考え、知恵を絞ることだと思います。
こう言うと誤解を生むのかもしれませんが、以下に述べるように「心が消えること」「心を虚しくすること」も、心理カウンセラーの大きな目標の一つだと思っています。もう少し柔らかい言い方にすれば、「こだわりやとらわれを解消すること」となるでしょうか。
心が消えるということ
我々の先人たち(例えば宗教家、哲学者等)の中には、瞑想などによって心を無にすること、空虚にすることを目指す人たちがいました。
それはおそらく、心がすべての問題の根本であるということに気づいていたからではないかと思います。
悩みや問題を作り出す主体はどこにあるのでしょうか?それは先ほどから述べているように、他ならぬ「私」自身のことであり、「心」と呼んでもさしつかえないでしょう。
最初の問題はこの「私」から始まると思います。幸も不幸も心が作り出すのではないでしょうか。
いつだってそうです。
心のつぶやきの始まりには、必ず「私が」が付いてきます。

「私が」「私にとって」「私は」・・・といったように、すべての問題は私にあります。それを問題とみなす主体は、言うまでもなくこの「私」です。そうではないでしょうか?
当たり前のことですが、何か自分にとって辛い出来事が起きた時に、「あなたが辛いんです」と言う人はいません。「辛いんです」と告白するとき、前提となる「私にとって」は省略されています。
ありとあらゆる場面で、省略されるところの「私」が存在しています。
「私」は「私」のことをこの身体のことであると認識していて、その身体であるところの「私」が経験するあらゆることを観測し、それだけでは飽き足らず、評価しています。
辛い出来事が起こった時には「(私は)辛い」とつぶやきます。
そして、その辛い出来事から逃れたり、解消するためにありとあらゆることを考え、実行します。
すなわち、そこには「辛い状況」と「辛くない状況」の二元性が生じてきます。
悩みについて考える時、最終的には悩んでいるところのこの「私」について考えることになるのは必然です。
*ちなみに、最近ではマインドフルネスという手法が流行っていますが、厳密にはこれはタイトルにあるように「心が消えること、虚しくすること」を目指すものではありません。
「心が消えること、虚しくすること」は通常人が求める性質のものではなく、嫌煙されるものだと思われます。マインドフルネスは、むしろこの反対で、集中を目指すものとして私自身は捉えています。
比較なしに生きることはできるのだろうか?
「死にたい」と人が言う時、思う時、
それはこの物理的身体、肉体としての死を望んでいるのか、
はたまたこのかっこ()の中の私の死を望んでいるのか、そこのところが重要なのではないかと常々思っています。
私自身、死にたいと思ったことは過去に幾度となくありますが、後になって振り返れば死にたいのもこの「私」、観念としての「私」、かっこ()の中の「私」のことでした。
心が消えるということ、心を虚しくするということがどういうことなのかは、心であるところの「私」には分からないでしょう。心が心を消すことはできないし、「私」が「私」を消すことはできません。なぜなら、何かを消そうとする動きをする時、そこにはやはり何かを消そうとしているところの「私」が存在しており、その動き自体が二元性を作り出しているからです。
皆さんは、心が消えたことがあるでしょうか?悩みとかそういった概念さえ思いつかないような、無の境地のようなものを体験されたことがあるでしょうか?
しかし、「消えたことがある」と体験を語ることが出来る時点で、それは私と私以外のものとの対象関係が発生しており、すなわちそれは無の境地ではないのでしょう。
難しい話になってしまいましたが、一言で言いたいことをまとめると、
比較なしに生きることはできるのだろうか?
ということです。
この問いに答えることは至難の業ですが、カウンセリングに相談に来られる方とお会いする度に、私の中でひそかに思っている問いであります。
私の中にこれに対する答えは今のところありません。
比較の中で生きる我々にとって、結局は努力をしていく他ないのかもしれませんが、その努力に寄り添い、努力につかれた人の支えになれるように、引き続きカウンセリングサービスの提供を続けていこうと思います。
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